彼の人と共にあった天鵞絨6 明治天皇

写真の天鵞絨裂仕覆(しふく)は、明治22年(1889年)2月11日(紀元節、つまり初代天皇・神武天皇の即位日である旧暦1月1日)大日本帝国憲法発布式の夜に、宮中の豊明殿において、この記念すべき日を祝して、明治天皇から参加者に下賜(かし)された薩摩焼香炉の入れ物です。天鵞絨仕覆の表面には天皇家の十六八重表菊の紋章が、裏面には二五四九紀元節の文字が、金糸刺繍でほどこされています。 その夜は宮中舞楽とともに晩餐が振舞われるなど、大変華やかだったようです。本品は参列者の一人であった鹿児島県知事・渡邊千秋の所有品でしたが、天鵞絨美術館館長が私的に購入し、現在は当館にて展示しています。

本品が収められていた桐箱の蓋の裏書

明治天皇にとって、この憲法発布の日は、さぞや晴れ晴れしい日であったことでしょう。なにせ、明治天皇が自らの肝いりで作ったと非常に誇りに思っていらっしゃった憲法であったのですから。

「憲法発布略図」1889年, 楊洲周延

もちろん、一から十まで作られた訳ではありません。憲法制定を主導したのは、伊藤博文です。憲法制定の五年前まで、明治天皇はむしろ一般政務にすら身を入れておられないご様子でさえありました。それは、明治天皇が幼少期から教えられていた君主制を信じていたために、政府からの民主化に向けた働きかけは、自らのあるべき権力を抑圧されているように感じられ、それに対する不満を意思表示する意味合いもあったようです。

しかし、伊藤博文が憲法の根幹を伝えようと手を尽くしたことで、明治天皇と伊藤博文は厚い信頼関係を結ぶようになります。そのような経緯から、明治天皇は、33回にも渡るドイツ式憲法学・国家学を熱心に受講され、1カ月間に及んだ憲法草案の審議にも、憲法付属法案の審議にも休むことなく出席されました。その審議中に、1歳2か月の第四皇子・昭宮が死去されるという悲しい出来事があったにもかかわらず、その悲しみを押し隠して、審議継続をされたということからも、明治天皇がこの憲法制定をいかに重要視していらっしゃったかが伺えます。

さて、それほど熱い思いをもって臨まれた憲法発布式での記念の品。さぞかし見事な天鵞絨裂かと思われることでしょう。しかしながらこの天鵞絨裂の品質に関して言えば、完璧な良品とは言えません。現存する当時の製品の多くと同様、毛足の長さにはばらつきが見られます。

実は、明治20年代というのは、日本の天鵞絨屋にとって不遇の時代でした。その2年ほど前までは、金糸や銀糸のパイルで柄を織り出す金華山織などの天鵞絨が西陣で織られていました。しかし徐々に西洋から天鵞絨が大量に日本へ輸入されるようになっていきます。西洋では機械を使った力織機や複雑な柄が織れるジャカード織機で高品質な天鵞絨を大量に織ることが出来るようになっていたからです。それを受けて、国産天鵞絨は生産中止を余儀なくされていたのです。
このような状況を鑑みると、この仕覆の天鵞絨は、国内で細々と織られていたものだったのかもしれません。

明治30年頃になってやっと国産天鵞絨は再び活発になっていきます。日本で開発された天鵞絨友禅が世界でも高い評価を得ることとなったり、日本でも天鵞絨製織用の力織機やジャカード織機も導入されたことで、輸出織物をも製織できるようになるからです。

《参考資料》 伊藤之雄, 明治天皇, ミネルヴァ書房, 2006