彼の人と共にあった天鵞絨3 毛利輝元

毛利輝元像

毛利輝元が豊臣秀吉から拝領したと伝わる、天鵞絨の陣羽織が存在することをご存じでしょうか。名は「黄天鵞絨地桐紋付陣羽織」。今も、毛利博物館に収蔵されています。

陣羽織とは、甲冑の上から羽織る防寒着の役割をするもので、室町時代後期から安土桃山時代の頃に登場し始めたと言われています。絢爛豪華さを貴ぶ時代であったこともあり、武将たちが自らの威厳を示す道具として、様々な意匠を凝らした陣羽織が作られていました。陣羽織の生地には、絹や羅紗が使われることが多かったのですが、最高級とされたのが、渡来品である天鵞絨でした。

日本で最初に天鵞絨が製織されたのは、西陣の地で17世紀後半のことです。当時の日本においては、織り方も分からない水鳥の羽毛のような光沢が美しい生地。「天鵞」は、中国語で「白鳥」の意味であり、天鵞絨の光沢と柔らかさが、白鳥の羽毛に似ていることが語源です。それを目にした誰もが憧憬をもって眺めたであろうことも想像に難くありません。

さて、冒頭の「黄天鵞絨地桐紋付陣羽織」とは、どのような意匠だったのでしょうか。山口県文化財の下記リンクに、その写真が掲載されています。(https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/image.asp?mid=90055&fname=terumotokannkei1.jpg
上半身の表地には、黄色の牡丹唐花文様の天鵞絨が使われていて、背には黒天鵞絨の大きな桐紋が切付けられています。裏地は浅葱地輪違菊文緞子。袖はなく、袖ぐり部分が南蛮風の曲線裁ちです。下半身部分は、赤地唐草文様緞子でプリーツスカートのような形になっています。
残念ながら、黄天鵞絨はほとんど擦り切れてしまっていますが、名物裂である天鵞絨を贅沢に使い、南蛮風に仕上げた大胆かつ艶やかな意匠は、いかにも秀吉好みの個性が光る逸品と言えるでしょう。

この贅沢なプレゼントの貰い主、毛利輝元とはどのような人物だったのでしょう。
戦国の世に於いて、一代にして中国地方の覇権を手に入れた毛利元就の孫として、天文22年(1533年)に生まれます。その頃の元就は、中国地方での覇権を手に入れるべく権力基盤を固めている最中でした。輝元は、11歳の時に毛利家当主であった父を亡くし、形式的に家督を継承します。元就は後見人となり、輝元と元就の二頭体制は、元就が死ぬまで続きました。それは元就が権力に固執したと言うより、輝元が二頭体制の継続を懇願した為でした。偉大なる祖父は、頼りがいのある存在でした。元就の死後においては、叔父の猛将・吉川元春と智将・小早川隆景という頼もしい補佐者に恵まれます。幼くして大役を担うことになってしまった巡り合わせと、頼れる人材にも恵まれた輝元は、頼ることを性分としてしまっていたかもしれません。
そんな彼が当主として独り立ちしてから「頼り」とした人物が、天正14年(1586年)に豊臣政権を確立したばかりの豊臣秀吉でした。豊臣秀吉にとっても、中国地方の権力者となっていた毛利輝元の存在は魅力的なものでした。

天正16年(1588年)、輝元は秀吉に謁見するため、初めての上洛を果たします。輝元の上洛を大いに喜んだ秀吉は、豊臣の姓を与え、輝元が高い官位につくための便宜を朝廷に図りました。名だたる人物をそろえた秀吉主催の饗宴や茶会に輝元を招き、さらには奈良の大仏ほか京都・大坂の名所旧跡や、大坂城の天守を秀吉自ら案内したと言います。この「手厚い」接遇によって、輝元は従順に秀吉への傾倒を深めていきます。最有力大名の一人でもあった輝元が秀吉に屈服した意義は大きく、それこそが秀吉の真の狙いでした。

秀吉のプレゼント攻勢はこれだけではありません。「黄天鵞絨地桐紋付陣羽織」に切り付けてある桐紋とは少し異なりますが、五三の桐紋もまた、秀吉から輝元へ下賜したものの一つです。
元々、桐紋は、菊花紋と共に天皇家のみが使用できる最高位の紋章でしたが、天皇からの恩賞として、桐紋が下賜されていきました。はじめは後醍醐天皇から室町幕府初代将軍・足利尊氏へ、13代将軍・足利義輝から織田信長へ、そして織田信長から豊臣秀吉へと下賜された由緒正しき紋なのです。

五三の桐

黄天鵞絨地桐紋付陣羽織拝領に関するエピソードは残念ながら残っていません。ですが、この陣羽織も二人の関係をより強固にさせる、要のひとつであったことは間違いないでしょう。そして、天正19年(1591年)には112万石の所領が安堵されるまでに及びます。

輝元もまた秀吉の期待に応え続けました。小田原攻めの際には京都警固を務め、毛利氏領国の中心的存在として大阪城にそっくりな広島城を築城し、朝鮮出兵に赴き、五大老の一人として、豊臣政権に忠誠を尽くし続けます。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの西軍総大将として惨敗するという大役を果たすことになってしまうまで…。

広島城天守閣
大阪城天守閣

秀吉という大きな「頼り」を失ってから後は、一気に毛利氏の勢力を弱めることになってしまいます。関ヶ原の戦い後は、徳川家によって所領を29万8千石まで召し上げられ、最後は毛利氏改易を恐れなければならない立場にまでなってしまったのですから、当主としての采配を褒めることはできません。しかしながら、輝元の人生の多くの時間は華やかであったと言えるでしょう。「黄天鵞絨地桐紋付陣羽織」も輝元の人生の一場面を輝かしく彩った一品であったに違いありません。

《参考文献》

文化財要録,山口県の文化財,2010
https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=90055&pid=gs_4_t_n&svalue=&bloop=&mloop=&floop=&shicyouson=&meisyou=&shitei=&kubun=&syurui=&jidai=&loopcnt=&m_mode=&m_value=&m_loopcnt=
Wikipedia, 毛利輝元
二木謙一, 秀吉の接待 毛利輝元上洛日記を読み解く, 学研プラス, 2008